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博多織について

満田弥三衛門

博多織のはじまり

鎌倉時代の1235年、ベンチャー精神あふれる一人の青年、満田彌三右衛門は、新しいビジネスのため、最先端技術国である宋へと圓爾辯圓(えんにべんえん/勅諡 聖一国師)と共に旅立ちました。当時の渡航は命がけの覚悟がなければできるものではありませんでした。遭難の危機を聖一国師の祈祷により救われたという伝説も残っています。彌三右衛門の夢と聖一国師の祈りがなければ、博多織は生まれなかったのです。博多織のはじまりの物語は、今も受け継がれています。

幕末献上袋帯

八献立八寸なごや帯(江戸〜明治時代)

織」の名称の誕生

15世紀後半、先祖の彌三右衛門の夢を受け継いだ満田彦三郎は、彼と同じように明へと海を渡りました。帰国後、竹若藤兵衛・伊右衛門親子と共に織物の研究に没頭し、改良を繰り返し、琥珀織のように厚地で、浮線紋のある柳条が特徴の織物を開発しました。これが、現在の伝統的博多織の原点となったのです。

博多旧図

江戸時代に生まれた献上博多織

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利。天下泰平の江戸時代の幕開けです。博多織は、黒田長政の黒田藩のもと、新たな時代を迎えます。黒田藩班から江戸幕府への献上品として博多織が選ばれました。これが全国デビューのきっかけとなりました。選ばれた文様は、博多織の原点である独鈷華皿文様でした。 これ以降、独鈷華皿文様を献上柄とよぶことになります。献上博多織は、献上された独鈷華皿文様の博多織として一躍ブランドになりました。さらに、歌舞伎役者の七代目市川團十郎が「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の講演で博多織を身にまとい、宣伝したことでさらに広まることとなったのです。

筑前國博多織之図
「筑前國博多織之図」福岡県立図書館蔵

江戸後期の需要拡大から近代へ

献上博多となった博多織は、織屋株制度により厳重に保護管理されました。それにより、高品質と希少価値が生まれます。江戸の後期になると、藩の経済発展のために規制が緩められ、庶民も博多織を着用することが許されて、需要が拡大します。それに伴い、生産量を増やすために、新たな織屋が参入しました。 しかし、江戸幕府崩壊と共に、献上品としての受注も無くなって、新たな時代へと突入したのです。明治時代となり、近代化を迎え、和装需要は大幅に減少しましたが、同時にジャカード機の導入により技術革新が起こり、商品の多様化も進みます。博多織は1976年に国の伝統的工芸品に指定されました。

小川善三郎

2人の人間国宝と博多織

1971年に小川善三郎、2003年に息子の小川規三郎が、重要無形文化財「献上博多織」技術保持者(人間国宝)となり、博多織は日本が世界に誇る歴史と文化になりました。2006年には、未来へ博多織を伝えるために「博多織デベロップメントカレッジ」を創設し、卒業生を生み出しています。彌三右衛門と聖一国師の夢と祈りからはじまった博多織は、2018年で、777周年を迎えました。そのDNAは今でも受け継がれています。これからも新たな博多織の物語が紡がれていくことでしょう。